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レオナルド・ダ・ヴィンチとはどんな人?作品と生涯や功績【万能の天才】

レオナルド・ダ・ヴィンチ どんな人学び
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レオナルド・ダ・ヴィンチと聞くと、モナリザや最後の晩餐などの絵画が有名です。

ただ、レオナルド・ダ・ヴィンチの功績はそれだけではありません!

「建築」「音楽」「医学」「科学」などさまざまな方面で活躍しました。

なんでもできるいわば、万能の天才です。

今回は、そんなレオナルド・ダ・ヴィンチが

  • どんな人か?
  • 生涯
  • 功績

について紹介したいと思います。

レオナルド・ダ・ヴィンチってどんな人?

レオナルド・ダ・ヴィンチ
プロフィール
  • 名前:レオナルド・ダ・ヴィンチ
  • 誕生日:1452年4月15日
  • 没日:1519年5月2日(享年67歳)
  • 出身地:イタリア・フィレンツェ・ヴィンチ
  • 代表作:「モナリザ」「最後の晩餐」「サルバトール・ムンディ」など

レオナルド・ダ・ヴィンチは、あなたもご存じの通り「モナリザ」や「最後の晩餐」を描いた画家です。

それ以外にも、音楽や建築、解剖学や生理学、物理学や光学、数学など、他分野で才能を発揮した「万能の天才」でもあります。

そんな多才なダ・ヴィンチの生涯を見ていきましょう。

ダ・ヴィンチの生涯

ダ・ヴィンチの幼少期

レオナルド・ダ・ヴィンチは、フィレンツェ共和国(現イタリア)のトスカーナ地方・ヴィンチという村で生まれました。

ヴィンチというのは、ダ・ヴィンチの生まれた村を表しています。

父は裕福な公証人、母は農夫の娘でした。

公証人とは、契約など法律の適法性などを証明・認証する者の事です。

つまり、契約の際に仲介に入り、法律にのっとり公正な立場で、証明や認証する人です。

ただ、父と母は結婚はしていませんでした。

レオナルド・ダ・ヴィンチは、生まれてから5歳までは母親と暮らし、その後は父親に引き取られ、ヴィンチ村の都市部に住むことになりました。

その頃、父親はアルヴィエラという16歳の娘と結婚しており、3人で過ごしていました。

しかし、ダ・ヴィンチが13歳の時にアルヴィエラは死去してしまいます。

ヴェロッキオ工房に入る

1466年頃、14歳になったダ・ヴィンチは、アンドレア・デル・ヴェロッキオ工房に弟子入りするのでした。

このヴェロッキオ工房は、当時フィレンツェで最大級の工房で、優秀な芸術家がたくさんいました。

ダ・ヴィンチは、芸術家「ヴェロッキオ」に弟子入りをし、才能を発揮します。

有名な絵画「キリストの洗礼」はヴェロッキオとダ・ヴィンチが共同で作成しました。

ただ、ダ・ヴィンチの腕前が凄すぎて、師匠のヴェロッキオは、その後二度と絵を描かなくなったそうです。

そして、20歳になる頃には聖ルカ組合からマスターの資格を得ます。

その後ダ・ヴィンチは独立し、自分で工房を持つようになるのでした。

独立後のダ・ヴィンチ

この頃、ダ・ヴィンチは同性愛で訴えられていました。

ただ、証拠に欠けており、ダ・ヴィンチは証拠不十分として、捕まることは免れました。

独立後、ダ・ヴィンチは「ブノアの聖母」や「カーネーションを持つ聖母」などを制作した後、ミラノへ渡り制作をします。

このミラノでの代表作は「最後の晩餐」です。

最後の晩餐は、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の壁に描かれました。

他にも「岩窟の聖母」などを描いています。

フィレンツェに戻ったダ・ヴィンチ

当時イタリアにフランス軍が攻め込んできたため、ダ・ヴィンチは、フィレンツェに避難しました。

このフィレンツェ時代にダ・ヴィンチは、「聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ」や「サルバトール・ムンディ」を制作します。

また、このフィレンツェ時代の代表作は「モナリザ」でしょう。

誰もが知っているダ・ヴィンチの代表作はこの頃に描かれたものだったのです。

晩年のダ・ヴィンチ

ダ・ヴィンチは再度ミラノに移りました。

この頃50歳を過ぎていましたが、絵画だけでなく、解剖にも力を入れていました。

ダ・ヴィンチは1513年~1516年にかけてヴァチカンで過ごしています。

その後、フランス王のフランソワ1世に招かれ、クルーの館が邸宅として与えられ、そこに住みました。

晩年は弟子や友人たちと過ごし、1519年5月2日にクルーの館で死去しました。

ダ・ヴィンチの功績

レオナルド・ダ・ヴィンチは、画家としてだけでなく、いろんな分野で才能を発揮しました。

ダ・ヴィンチの画家以外の功績について見ていきましょう!

ダ・ヴィンチは科学に関しての研究をしていました。

その研究は手稿に記されています。

手稿はダ・ヴィンチが約40年間にわたり書き綴っていたノートです。

そのページはおよそ13000ページにも及ぶとされています。

実際には約3分の2が失われているみたいです。

手稿にはドローイングと呼ばれる線画なども記されており、解剖の研究をしていた際の「人体図」なども描かれています。

ヘリコプター

ダ・ヴィンチが残した手稿には、ヘリコプターの設計図も描かれていました。

また、絵だけでなくこうするとヘリコプターが飛ぶであろうという説明も書かれています。

この説明の通り作っても飛ぶわけではないみたいですが、ダ・ヴィンチはヘリコプターの概念を構想していたのでした。

自転車

ダ・ヴィンチは、自転車のスケッチも手稿に記しています。

これは現在の自転車の原型に非常に似ており、当時の技術では作れないものであったので、実現はしませんでした。

ちなみに、自転車は1818年ドイツのカール・フォン・ドライス男爵が発明した、「ドライジーネ」と言われる木製の二輪車が起源とされています。

その300年も前に自転車の構想を得ていたレオナルド・ダ・ヴィンチはやはり凄いですね!

戦車

レオナルド・ダ・ヴィンチは戦車の構想も得ていました。

その構想は、扇形で360度攻撃可能な乗り物でした。

この装甲車の構想も、実現されませんでしたが、他にも「機関銃」「要塞」「毒ガス」「軍事用の簡易的な橋」「潜水用具」など軍事兵器の設計をしていました。

地図

レオナルド・ダ・ヴィンチは地図の制作もしていました。

イタリアの政治家ボルシアの依頼を受け、ダ・ヴィンチは、地図を作ることになりました。

その当時、今のような技術はありませんから、空中写真を撮ることもできません。

そんな中ダ・ヴィンチは、幾何学とコンパスを駆使して、空から見たような正確な地図を書き上げたのです。

街角を曲がるたびに角度を記録し、区間の距離を計測する。

そんな骨の折れるような作業を繰り返し、正確な地図を作り上げたのです。

解剖学

レオナルド・ダ・ヴィンチが、人体解剖学の勉強を始めたのは、師匠のヴェロッキオから解剖学の知識の習得を勧められたからです。

そして、ダ・ヴィンチは、サンタ・マリア・ヌオーヴァ病院での遺体解剖の立ち合い許可をもらい、パドヴァ大学解剖学教授と共同研究を行います。

手稿には解剖学に関するスケッチをたくさん残しており、その研究内容も記しています。

のちに人体解剖が禁止されるまでの20年で、30体近い死体を解剖しました。

この解剖が、ダ・ヴィンチの絵画の写実性を大きく高めたのです。

まとめ

レオナルド・ダ・ヴィンチがどんな人か?

また、生涯や代表作、功績などを紹介しました。

レオナルド・ダ・ヴィンチと聞くと、「モナリザ」を描いた画家という印象が強いですが、他分野でもこんなに才能を発揮したダ・ヴィンチ。

約3分の2も失われた手稿には、何が書いてあったかが気になりますね!

他にも偉人について書いておりますので、気になる方はご覧ください!

最後までご覧頂きありがとうございました!