PR

湯川秀樹ってどんな人?日本人初のノーベル賞受賞者│功績や生涯を解説

湯川秀樹 何した人?学び
記事内に広告が含まれています。
スポンサーリンク

湯川秀樹って知っていますか?

ご存じの方は少ないかもしれません。

実は、湯川秀樹は日本人初のノーベル賞を受賞した物理学者です。

そして、第二次世界大戦後はアインシュタインと共に核の廃絶運動を推し進めた人物です。

では湯川秀樹はどんな功績を残して、日本人初のノーベル物理学賞を受賞したのでしょうか?

今回は

  • 湯川秀樹とはどんな人なのか?
  • 湯川秀樹の生涯
  • どんな功績を残したのか?
  • アインシュタインとの関係

について紹介していきます。

湯川秀樹ってどんな人?

出典:Wikipedia
プロフィール
  • 名前:湯川 秀樹
  • 誕生日:1907年1月23日
  • 没日:1981年9月8日
  • 出生地:東京都東京市麻布区市兵衛町(現 東京都港区六本木)
  • 没地:京都府京都市左京区
  • 出身大学:京都帝国大学理学区部物理学科(現 京都大学)
  • 配偶者:スミ
  • 主な功績:中間子理論の提唱

年表

年表

1907年(0歳):東京都麻布区にて、地質学者である父小川琢治の三男として生まれる。

1908年(1歳):父が京都帝国大学の教授に就任したため、一家で京都に移住する。

1923年(16歳):第三高等学校理科甲類に入学。

1926年(19歳):京都帝国大学理学部物理学科に入学。

1929年(22歳):京都帝国大学理学部物理学科を卒業。同大学で理論物理学を研究する。

1932年(25歳):湯川スミと結婚。湯川家に入る。

1933年(26歳):大阪帝国大学理学部講師を兼任する。

1934年(27歳):「素粒子の相互作用について」を発表する。これがのちのノーベル賞受賞につながる。

1943年(36歳):文化勲章を受ける。

1948年(41歳):プリンストン高等研究所に招かれる。そして渡米する。

1949年(42歳):核力に関する中間子理論で、ノーベル物理学賞を受賞する。

1950年(43歳):大阪大学名誉教授になる。

1957年(50歳):ラッセル・アインシュタイン宣言でパグウォッシュ会議出席する。

1970年(63歳):京都大学名誉教授となる。

1981年(74歳):京都市の下鴨の自宅で亡くなる。

湯川秀樹の生涯

誕生から幼少期

1907年に東京都麻布区で生まれた湯川は、地質学者の父「小川琢治」と母「小雪」のもとに三男として生まれました。

1歳の時に父が京都帝国大学(現京都大学)の教授になり、家族で京都に移住する。

5.6歳には祖父から漢籍を習った。

漢籍とは、中国で出版された書籍で感じで書かれた書物の事を指します。

湯川はこの頃に「意味も知らず読んでいたおかげで、文字に対する抵抗がなくなった」と語っています。

中学~高校時代

中学時代の湯川は無口で目立たない存在で、あだ名は「権兵衛」だったそうです。

また、面倒なことはすべて「言わん」と済ませていたため「イワン」ちゃんともいわれていたそうです。

無口なところが理由で父親に「何を考えているのかわからん」と思われていたそうです。

湯川秀樹の父「小川琢治」の兄弟は4人おり、全員が学者で学者一家でした。

そんなこともあり、両親は湯川秀樹のことも学者にしようと思っていました。

ただ、秀樹が一番できが悪いと心配をしていたそうで、大学への進学をさせるかどうか迷っていたそうです。

中学には、同じくノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎がいて、高校、大学では同期でした。

そんな朝永とのいいライバル関係もあり、お互いに切磋琢磨していきました。

ノーベル賞受賞

京都帝国大学を卒業し、京都帝国大学の講師を経て、大阪帝国大学の教授に就任しました。

なかなか成果が出ない湯川秀樹でしたが、1934年に中間子理論構想を発表しました。

ほかの科学者たちは否定的な意見ばかりでしたが、中間子に似た新粒子が発見されたことで、湯川の中間子理論は世界的に注目されることになりました。

そして、1949年にノーベル物理学賞を受賞しました。

当時、アジア人としてはとしては3番目、日本人としては初のノーベル賞受賞者でした。

湯川秀樹の功績

湯川秀樹が残した功績は何と言っても「中間子理論」でしょう。

多くの科学者たちが悩んでいたのは、プラスの陽子同士がなぜくっつくのか?という事でした。

物質はすべて原子からできています。その原子の真ん中には原子核と電子があります。

そして原子核の中にはプラスの電荷をもつ陽子と電荷をもたない中性子が存在しています。

このプラスの陽子同士がなぜくっつくのかですが、湯川秀樹は、中性子の中にマイナスの電荷をもつ中間子があるという理論を立てたのです。

そして、アメリカの物理学者「カール・デイヴィッド・アンダーソン」が、宇宙から降り注ぐ宇宙線のなかから、中間子によく似た新粒子(ミュー粒子)も見つけました。

これによって、湯川の理論が世界的に注目されるようになったのです。

その後、1947年にイギリスの物理学者「セシル・パウエル」らが実際に中間子を発見したことで、湯川秀樹はノーベル物理学賞を受賞したのです。

そして、「セカイのユカワ」と呼ばれるようになったのです。

アインシュタインとの関係

実はアインシュタインは、ヒトラー率いるドイツに先に核爆弾を作られては困ると思い、当時のアメリカ大統領ルーズベルトに原子爆弾の開発を提案していたのです。

そして、アメリカは日本に原子爆弾を落としました。

アインシュタインはドイツ対策として提案した訳ですが、日本へ向けて落とされることを止めることができませんでした。

湯川秀樹はアメリカ滞在中にアインシュタインと出会いました。

そして、アインシュタインは湯川に対して「アメリカの原爆投下を止めることができなかった」と泣いて謝ったそうです。

ただでさえアインシュタインは偉大な物理学者であるにもかかわらず、この姿勢を見て、湯川秀樹はアインシュタインを慕うようになりました。

また、湯川秀樹もアインシュタインも科学者として、原子爆弾に関して、自分にも責任があると考えていました。

湯川秀樹はアインシュタインとラッセルが掲げた「ラッセル・アインシュタイン宣言」に署名し、核廃絶へ向けて動いたのでした。

まとめ

今回は湯川秀樹がどんな人なのか?や功績、生涯について紹介しました。

湯川秀樹は日本人初のノーベル賞を受賞した人物です。

子供の頃は両親に兄弟の中で一番で気が悪いと言われた湯川秀樹でしたが、必死に勉強し、努力することでノーベル賞を受賞するまでになりました。

湯川秀樹の活躍は日本人にとって誇らしくもありながら、私たちに努力をすることの大切さを教えてくれます。

誰かに否定されても、自分自身が信じた道を突き進むことが時として、世界を変えるのかもしれません。

他にも偉人を紹介しておりますので、気になる方はご覧ください。

最後までご覧頂きありがとうございました!